こんな世界に放り込まれて、ひもじくて、切なくて怪我だらけで、もう立ち上がることさえできなくて。それでも帰りたいと、それだけで歯を食いしばってきたのに。実を言えば陽子が故国で持っていたものは、こんな人間関係でしかなかったわけだ。
——どこに帰るつもりだったのだろう。
待っている人などいないのに。陽子のものは何一つなく、人は陽子を理解しない。騙す、裏切る。それにかけてはこちらもあちらも何の差異もない。
——そんなことは分かっていた。
それでも陽子は帰りたかったのだ。
『月の影 影の海 十二国記』上巻
『月の影 影の海 十二国記』上巻とは
「十二国記」の壮大な物語が、いよいよここから始まります!
前作『魔性の子』から約9ヵ月後、「十二国記」の本編 Episode 1 となる『月の影 影の海』上巻・下巻が刊行されました。前作の舞台は「こちらの世界」でしたが、本編は「あちらの世界」を舞台に、十二の国々、それぞれの国を治める十二の王、その王を選ぶ十二の麒麟、そこで暮らす人々の物語が綴られています。
『月の影 影の海』上巻は、主人公が十二国の世界へ連れ去られることから始まるため、主人公と同じ速度で十二国の世界に触れ、その世界のつくりを学ぶことができます。そして、「十二国記」シリーズすべてに共通して言えることですが、気がつくと、同じ世界で共に生きているような感覚を味わうことができますよ。
本記事では、『月の影 影の海』上巻のあらすじ、おもしろいポイント(完全に主観です)、「十二国記」30周年記念ガイドブックにおける小野 不由美さん(「十二国記」シリーズの著者)のインタビューについてお話します。
『月の影 影の海 十二国記』上巻のあらすじ
登場人物
『月の影 影の海』上巻の主な登場人物は、高校生の中嶋陽子(なかじま ようこ)と謎の若い男 ケイキです。
あらすじ
高校生の中嶋陽子は、ここのところ夢を見続けている。異形の獣たちが、殺意を持って自分に近づいてくる夢。最初は影として見えていたものが、もうすぐそこまで迫ってきている。
ある日、見知らぬ若い男が陽子の前に現れた。その男の名は、「ケイキ」。ケイキは、陽子の足許に膝を突いて深く頭を下げ、言った。
「お捜し申し上げました」
その直後、陽子は異形の獣たちに襲われかけ、ケイキに異世界へと連れ去られた。その途中で、陽子はケイキとはぐれてしまう。
陽子が流れ着いた国 —「巧国(巧州国)」。陽子は、「海客(海の東の方から来た人・カイキャク)」として捕らえられ、役所に連れて行かれることになった。巧国では、海客は「良い海客」か「悪い海客」かを判断するために一度捕らえられ、悪い海客と判断された場合、幽閉か死刑となる。
「生き延びて、帰りたい」その一心で、陽子は逃げ出すことを決意するが…。
何一つ分からない世界で、獣に襲われ、人に騙され、裏切られ、果たして陽子は生き延びることができるのか。
『月の影 影の海 十二国記』上巻 ここがおもしろい!
『月の影 影の海』を読んで最初に感じたのは、”中嶋陽子”というキャラクターへの共感でした。自分の学生時代も陽子のようだったかもしれないと感じるところから始まりました。陽子自身に共感できなくても、同じ学校に陽子のようなクラスメイトが1人はいたのではないでしょうか。
陽子が異世界に連れ去られてからは、壮絶な出来事が次々と起こり、気づけば心の中で「陽子がんばれ!」と応援せずにはいられませんでした。
読者を惹きつける陽子のキャラクターも含め、本記事では、「FAVE POINT」と題して、読んでおもしろかった3つのポイントをピックアップしてみました。
- 陽子の内面の変化
- 巧国の人々の姿と暮らし
- 不気味な声
FAVE POINT 1
陽子の内面の変化陽子は、真面目で穏和しく、いつも誰かの顔色を窺っているような少女です。両親、学校の同級生や教師に対しても、陽子は自分の考えを主張したり、意見を述べたりすることはありません。自分の言動によって周囲に波風を立てたくない、誰にも嫌われたくないといった気持ちからなのでしょう。
ここでは、両親、同級生、教師、それぞれに見せていた陽子の顔についてお話します。
両親 × 陽子
陽子に「かわいく、素直で、穏和しい女の子」を半ば強要する父親、父親を立てて自分の意見を言わない母親。そんな両親に対して陽子は黙って従うしかありません。
進学先
陽子は高校進学の際、家から少し離れた、制服が気に入った高校を選ぼうと考えていました。しかし、父親が通わせたがったのは、家から近く、悪い気風や華やかな校風がない「堅い校風」の女子高でした。陽子の中学の成績は比較的良く、もっと上のレベルの高校を選ぶこともできたため、母親は惜しそうにしていましたが、結果的に父親の意見に従いました。制服に拘って他の高校に行きたいと主張することに気が引けた陽子は、両親に黙って従い、今の平凡で愛着のない高校に通うことになったのです。
服装
陽子が小学生の頃、フィールドアスレチックに行くために母親にお願いしてジーンズを買ってもらったのですが、父親に反対されました。
「女の子が男の子みたいな恰好をするのは嫌い」
「女の子が男みたいな言葉遣いをするのはみっともない」
「女の子は男の子に勝たなくていい」
それを聞いた母親は、すぐに父親に謝り、陽子にも父親に謝るよう促しました。結局、ジーンズは返品することになり、母親は言いました「こうするのがいちばんいいの」。
上の2つのエピソードからも分かるとおり、陽子に対する父親や母親の言動は、今ではジェンダーバイアスやジェンダーロールにあたるのではないかと思われますよね。
この作品が刊行された約30年前と現在では、ジェンダーに関する人々の意見や社会も少しずつ変わってきてはいますが、そのようなことばを無意識に使っている人がいたり、耳にしたりすることは今でもまだあります。
筆者が幼い頃は、「女の子なんだから家事を手伝いなさい」「男の子なんだから泣かないの」というように「女の子だから〇〇」「男の子だから〇〇」ということばを嫌というほど聞きました。家事を手伝うことも泣くことも、性別とは何の関係もなく、聞いていて気持ちのいいものではありませんでした。
そんな筆者とは反対に、陽子は、両親の言う「女の子」に違和感を抱くことはなく、それでいいと思っていたようです。
同級生 × 陽子
陽子のクラスでは、ある遊びが流行っていました。それは、「杉本」という女子生徒を皆で無視すること。いわゆる”いじめ”です。
陽子は以前、杉本に声をかけられたときにうっかり返事をしてしまい、後で他の生徒から皮肉を言われた経験がありました。そのため、周りの生徒に合わせなければ、今度は自分がいじめられるかもしれないと考え、杉本のことを笑ったり無視したりして他の生徒に同調します。その一方で、杉本に繰り返し話かけられると、杉本を哀れに思う気持ちから、返事をしてしまったり強く言い返したりすることができません。陽子はいつも、はっきりとしない、どっち付かずな態度をとっています。
杉本にも杉本以外の生徒にも悪く思われないようにしようとする陽子の姿は、どのように映っていたのでしょうか。
家庭以外で、一日のほとんどの時間を過ごす学校は、そこが自分の世界のすべてだと思いがちになります。その小さな世界の中で平和に過ごすために、面白くもない話に笑い、周りに同調し、独りになりたくないがために”友だち”を作り、どんどん自分で自分を殺していた経験はないでしょうか。その”友だち”は、限られた世界で”一緒にいるだけの人””同じ時間を過ごすだけの人”ではなく、本当の友達だったのでしょうか。
教師 × 陽子
教師の中には、陽子の生まれつき赤い髪を良く思っていない者がいます。夜遊びをしているのではないか、悪い仲間と付き合っているのではないかと疑われることもあります。それに対して、生まれつきだからと主張したり、反抗したりすることはありません。赤色が目立たないように三つ編みにしたり、「短く切ります」と言ったりして、教師に叱られないようにしていることが分かります。
誰に対しても嫌われたくない、悪く思われたくない気持ちは、誰しもが持ち得る自然なものだと思います。しかし、実際には、誰からも嫌われないということは限りなく不可能ではないでしょうか。どちらか一方に良い顔をすれば、他方には悪く映る。それは至って当たり前のことのように思います。陽子のように誰にも嫌われていないということは不自然で、誰にも好かれていないことの裏返しのようにさえ感じられます。
そんな陽子は、異世界で信じた人に騙され、人の裏切りを経験します。そして、元いた世界の自分のままでは生き延びることができないと悟るのです。陽子は、ここからどのような変化を遂げるのか、どのような姿を見せてくれるのかとても楽しみです。
FAVE POINT 2
巧国の人々の姿と暮らし「十二国記」シリーズの魅力の一つは、十二国それぞれの国の異なる世界や暮らしが緻密に描かれていることです。
「十二国記」本編の初めに登場する国は、陽子が流れ着いた「巧国」。陽子が見た巧国の人々の姿、またその暮らしを見ていきましょう。
- 顔立ち…東洋人
- 髪…茶色・赤色・紫っぽい赤色・青っぽい白髪などさまざま、男性は髪を伸ばして括っている
- 眼…黒色・水色などさまざま
- 古い中国風
- 男性…上着と丈の短いズボン
- 女性…上着と丈の長いスカート
- 東洋的な雰囲気
- 木造の建物が多い
- 黒い瓦屋根
- 白い漆喰の壁
- 窓にはガラスが入っていない
- 通貨…硬貨(四角い硬貨・丸い硬貨)、紙幣は無さそう、単位は「銭」
- 電気やガスはなく、竈や井戸を使用
- 文字…硯と筆を使って書く、漢字に似たような文字も使用
- 移動手段…基本的に徒歩(お金持ちは馬や馬車に乗る)
- ごはん…餅のようなものが入ったスープ、小豆の入った甘いお粥
- 風呂…大きな盥にお湯を張って入る
- 寝台…床や畳の上に薄い布団を敷いて寝る
- 街には浮浪者が多く、テント生活をしている人々もいる
- 人々は、冬以外の季節は田んぼの近くの小さな集落「村」で過ごし、冬は高い壁に囲まれた少し大きな集落「里」に戻って過ごす
建物のつくりや田んぼの広がる風景など、昔ののどかな日本に似ている部分が多いですね。しかし、街には浮浪者が多く、治安はあまり良くない印象を受けます。
なぜ巧国は浮浪者が多いのか、なぜテント生活をしている人々がいるのか。これから陽子が巧国で過ごす中で、その理由が明らかになっていきます。
FAVE POINT 3
不気味な声前作『魔性の子』では、潮のにおいや強烈な死臭のように、嗅覚を刺激するにおいが印象にありますが、『月の影 影の海』上巻では、「不気味な声」特に「赤ん坊の泣き声」「猿の笑い声」がとても強く耳に残ります。この作品では、音や声が情景の描写としてだけではなく、特定の物事を想起させるきっかけにもなっているように思います。
では、それぞれの声が聞こえる場面とその効果について見ていきましょう。
林の中で聞く赤ん坊の泣き声
「海客」として馬車で役所に連れて行かれる途中、林の中で陽子が聞いたのは、赤ん坊の泣き声です。最初は途切れ途切れに聞こえていた声は、どんどん数を増やし、陽子が乗っている馬車を取り囲んでいきました。その泣き声の正体は、赤ん坊ではなく、人を喰らう黒い毛並みの大きな犬 ― 獣でした。
赤ん坊の泣き声で人の気を引くとは…。狡猾な獣です。
「獣」に「赤ん坊の泣き声」を出させるという設定が、とてもおもしろいですよね。物語の中で赤ん坊の泣き声が出てくると、「あのときの獣だ」とすぐに思い出せるほど大きなインパクトがあります。
“きゃらきゃら”と笑う 猿の声
“きゃっきゃっ” ではなく、”けらけら” でもなく、”きゃらきゃら”。
他の作品ではあまり見かけない独特な笑い声。
読後、すぐそこから聞こえてきそうな、恐る恐るあたりを見回してしまいそうな、そんな不気味さがありますね。
この蒼い猿は、異世界で獣に襲われた陽子の前に突如現れます。
FAVE POINT1 陽子の内面の変化にとても影響を与える重要な存在なので、猿の存在そのものの意味を考えながら読むと、より楽しむことができると思います。
『月の影 影の海 十二国記』上巻 小野 不由美さんのインタビュー
前作『魔性の子』の記事でもちょこっとお話しましたが、今回の作品についても、小野 不由美さんのインタビューで明かされたエピソードを少しだけお話したいと思います。
小野 不由美さんのロングインタビューは、2022年に発売された「十二国記」30周年記念ガイドブックに掲載されていますので、興味のある方はそちらもご覧ください。
- 中嶋陽子のキャラクター設定
小野 不由美さんは、執筆当時、いわゆる少女小説の主人公の”女の子像”に違和感があったそうです。そのため、等身大で、小野さんご自身が共感可能な女の子が書きたくて、中嶋陽子というキャラクターになったようです。
- 「十二国記」の世界
パソコンで実際に地図を作成し、広さ・距離・移動速度などを綿密に計算しているそうです。
まとめ
『月の影 影の海』上巻は、「十二国記」の世界への入り口となる物語です。十二国の世界のつくり、そして、生きることを諦めず困難に立ち向かう少女の姿がここにあります。
また、異世界に連れ去られた陽子がそうだったように、自分の生き方や人間関係を見つめ直すきっかけになる作品です。
『月の影 影の海』上巻を読んで、「ここがおもしろいよ!」「こんな仕掛けがあったよ!」など、ご自身が感じたこと気づいたことをコメントでぜひお聞かせください!
作品概要
著者/作家 | 小野 不由美(おの ふゆみ) |
出版社 | 新潮社 |
フォーマット | ソフトカバー、278ページ |
電子書籍 | なし(2023.3 現在) |
シリーズ | 十二国記 |
カテゴリー | ファンタジー |
著者/作家
- 大分県中津市生まれ
- 配偶者:綾辻 行人(ミステリ作家)
- 大谷大学在学中に京都大学推理小説研究会に在籍
- 1988年『バースデイ・イブは眠れない』でデビュー
- 1993年『東亰異聞』 日本ファンタジーノベル大賞 最終候補
- 2013年『残穢』山本周五郎賞受賞
- 代表作『ゴーストハント』シリーズ
「十二国記」シリーズ
2021年に刊行30周年を迎えた「十二国記」シリーズは、今住んでいる世界と現実には存在しない異世界からなるファンタジー小説です。
異世界には十二の国があり、十二の「王」と十二の「麒麟」がいる。麒麟は天命により王を選び、王は国を治める。
それぞれの国で起こる問題や国同士の関わりをとおして、国とは何か、天命とは何か、人を信じるとは何か、生きるとは何か、さまざまなことを考えさせられる作品です。
「十二国記」シリーズは、おすすめのファンタジー小説として度々とりあげられ、長年多くの読者に愛されています。また、日本だけではなく、外国語に翻訳され海外でも広く読まれています。
2002年にはアニメ化され、アニメがきっかけで原作を読み始めたという方もいるのではないでしょうか。
これまでに15巻が刊行され、まだ完結していません(2023年現在)。
Episode 0 | 魔性の⼦(ましょうのこ) |
Episode 1 | ⽉の影 影の海(つきのかげ かげのうみ)〔上〕〔下〕 |
Episode 2 | 風の海 迷宮の岸(かぜのうみ めいきゅうのきし) |
Episode 3 | 東の海神 ⻄の滄海(ひがしのわだつみ にしのそうかい) |
Episode 4 | 風の万里 黎明の空(かぜのばんり れいめいのそら)〔上〕〔下〕 |
Episode 5 | 丕緒の⿃(ひしょのとり) * 短編集 |
Episode 6 | 図南の翼(となんのつばさ) |
Episode 7 | 華胥の幽夢(かしょのゆめ) * 短編集 |
Episode 8 | 黄昏の岸 暁の天(たそがれのきし あかつきのそら) |
Episode 9 | 白銀の墟 玄の月(しろがねのおか くろのつき) 〔第一巻〕〔第二巻〕〔第三巻〕〔第四巻〕 |
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